今をさること450年前
戦乱の瀬戸内を生きた一人の女性
名を鶴姫という
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しまなみの鶴姫 瀬戸内のジャンヌダルク
私が「鶴姫」を知ったのは、「村上海賊の娘」という本が、本屋大賞に選ばれた2014年。
この本があまりにも面白く村上海賊に興味をもった私は、しまなみ海道の大島にある「村上海賊ミュージアム」へと訪問しました。
そのときに見た壁画が上の写真。
この壁画「村上海賊の娘の絵がもう飾られてあるぅ」ことに驚き、スタッフさんへ「村上海賊の娘の【景(きょう)】」がもう飾っているんですね。」と声を掛けたところ、「この絵は【鶴姫様】ですよ」と返された。
しまなみ海道には、もうひとりの姫様がいたのである。
鶴姫が身に着けていたとされる鎧
大三島のパワースポットであり、観光スポットでもある大山祗神社の道をはさんで隣に、「大山祗神社宝物館」という建物がある。
この宝物館、実はすごいお宝が展示されているのであるが、この宝物館を訪れる人は、実はあまり多くないと思う。
宝物館に収蔵の宝物は国宝8点、国重要文化財469点など、源義経、源頼朝の鎧なども展示されている。
こんなすごい宝物殿であるに関わらず、大山祗神社自身があまりこの宝物殿を大々的にアピールしていない。何故そうしないかはわからない。
この宝物館に鶴姫が身に着けていたとされる鎧がある。
恋人に手を差し伸べる鶴姫の像
三島水軍を鼓舞する鶴姫
鶴姫の悲恋。伝説となった鶴姫の最後
鶴姫の悲恋と伝説となった鶴姫の最後は、「鶴姫公園」で見ることができる。
以下展示されている内容を引用して紹介する。
鶴姫は大永四年(1524年)伊予の国、大三島の大山祗神社の社家であり、代々その祭祀を司る大祝職三島家に生まれ、子供の頃から武術や兵法を学び、武士として育てられた
天文十年(1541年)周防(山口県)大内軍との合戦により、兄である大三島水軍の陣代、大祝安房(おおほおりやすふさ)が戦死した。
その後、鶴姫は安房に代わり大三島水軍の陣代となった。
天文十二年(1543年)6月、過去二回の合戦に敗れている大内軍はあらゆる兵力を集結して大三島水軍を攻めた。この戦いで鶴姫の右腕であり恋人の越智安成(おちやすなり)
は秘術をつくして戦い、最後の手段として決死隊で敵の将船に突撃することに・・・
鶴姫は、鎧にお守りとして身に着けていた鈴を安成に手渡し、無事を祈った。しかし鶴姫の祈りは届かず、安成は戦死した。
鶴姫は、もう一度最後の攻撃を敢行することを告げ、残った早船を引き連れ出撃した。大内軍の不意を突いた攻撃は見事に決まり、大三島水軍は三島社を守り抜いた。
鶴姫十八歳の初夏のことである。
その夜・・・鶴姫はひとり海へ
戦いの終わった静かな海から、チリリ・・・チリリと安成に手渡した鈴の音が届いてくる。
「鶴は女に戻ります」
愛する安成のもとへ・・・鶴姫は海へ身を投げた。
三島城には、安成への思いをつづった一首と紺絲威の鎧が残された。
わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ
わたしの恋は海の中のからっぽの貝殻のよう。大好きだった 死んだあの方の 名前を思うだけでも辛いという意味だそうです。
この歌を詠んで鶴姫は海に身を沈めたとされます。
今・・・この地を訪れる若い男女は小さな鈴を持参し、大三島が近くなったとき、そのすずを海に落とす。鈴がその姿を消すまで一心に祈るのである。そうすれば二人の心はいつもひとつであるという。
宮浦の港を見守る鶴姫
海に身を投げ、恋人「越智安成」のもとへ行った鶴姫は、今でも大山祗神社の参道「宮浦の港」を静かに見守っています。
鶴姫をしのぶ鶴姫まつり(コロナ禍のため再開は未定)
鶴姫をしのぶ「鶴姫まつり」というイベントが以前は行われていました。
この記事を作成している時点では、コロナ禍で中止になっています。
一度訪れた鶴姫まつりでは、タレントの河北麻友子さんが鶴姫に扮して行列が行われていました。
美しい人でしたがちょっと鶴姫のうける印象とは違うかな。
あくまで個人の感想です。(笑)
鶴姫を像をめぐるマップ
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